どんどん着々アニメ

アニメの感想メイン。時々考察・その他雑記なブログです。

エスとアニメにおいて百合っぽさを感じさせる「お姉様」という呼称

どうもです。

アニメでは時々、女性キャラから年上の女性キャラへの呼び方に「お姉さま」というものが出てきますよね。
私はそれを見て、条件反射的にその二人の関係性に百合っぽさ、あるいは年下の女性キャラに百合属性を感じ取ってしまいます。そしてこれはおそらく多くのアニメファンでも同じことを感じ取ることでしょう。

一体どこからこの女性同性愛性がくるのか。それが今月発売された文學界6月号に掲載されている「女性同性愛の文学史、あるいは「レズビアン」という不幸――LGBT批判序説2」/ 伊藤氏貴という評論で書かれていました。(アニメではなく文学を題材にした評論ですけどね。)

この「お姉さま」という呼称は”エス”という文化から由来しているのです。
評論ではまるで常識かのようにエスについて触れていましたが、もしかしたら知らない人もいるのではないでしょうか。さらにいえば、「お姉さま」自体に女性同性愛性を感じない人もいるのではないかと思います。


そこでこの記事では、アニメ作品において「お姉さま」という呼称がどういった文脈で、そしてどのような理由で使われているのかについて書いていきたいと思います。

*以下の文章は上で挙げた評論に大きく寄りかかったものになっています。必要なところは引用して説明をしていきますが、元の評論を読んだほうが手っ取り早いかと思います。

”エス”という文化

非常に詳しいエスについての説明が既にあるので、リンクを貼っておきます。

dic.nicovideo.jp

エス (文化) - Wikipedia


大ざっぱに要約すると、エスとは女学生(=女学校の生徒)同士の精神的な特別の絆、あるいはそれを描いた文学のこと。「sister」「sisterhood」から由来する言葉です。
「お姉さま」という呼称は、年下の女学生がエスの関係にある年上の女学生を呼ぶときに用いる言葉なのです。

エスという関係には大事なルールが3つあるようです。

  • 一対一の関係であること。
  • 関係は学校内に限定されること。
  • 関係に「性」を持ち込まないこと(=清純であること)。

エスも確かに女性同士の愛ではありますが、このようなルールがあり、百合的関係そのものというわけではありません。
なので、本来的には「お姉さま」という呼称から”百合”を見出すのは誤りなのです。

アニメにおける「お姉さま」

しかし、私達が「お姉さま」という呼称から受ける印象は”百合”そのものでは無いのだと思います。
”百合”ではなく、形だけの”百合っぽさ”なのではないでしょうか。
そしてアニメそのものにおける「お姉さま」という呼称も本来的なエス関係を示唆するものではなくなっているように思います。

どう使われているのかというと、キャラクター性のため。キャラクターの属性を示す記号として使われているのだと思います。

具体例から考えてみます。

『無再限のファントム・ワールド』というアニメ

f:id:ryumesa:20160521181913j:plain

©秦野宗一郎・京都アニメーション/無彩限の製作委員会

2016年冬季放送の京都アニメーション制作『無再限のファントム・ワールド』というアニメにも「お姉さま」という呼称が出てきています。

和泉玲奈というキャラクターは、第一話での他のヒロインとの初対面の際、相手に対して特別な感情を抱いたかのような描写がされます。
そして和泉玲奈は思いがけず「お姉さま」と口走りますが、自分は元女子校の生徒で、上級生を「お姉さま」と呼ぶ習わしがあったと説明しています。結局終始「お姉さま」呼びでこのアニメは完結することになりますが、その二人の間に特別な絆が生まれたといった描写は特にありません。
なんら関係性の発展もありませんし、そもそも舞台となるのは共学高校です。


明らかにそこにエス的な文脈はなく、ただ”百合っぽさ”というキャラ付けのためだけに「お姉さま」という呼称が存在しているように感じます。

つまり、このアニメにおいては”異性が苦手”、”お嬢様”、”清純”といったキャラクター性を補強するためだけのモノとして使われているのです。


そしてこのアニメに限らず、「お姉さま」という言葉は”百合っぽい”というキャラクター性を瞬時に説明するための便利な言葉として使われているように思います。


なぜ「お姉さま」という呼称がアニメ界隈でこのように使われるようになったのかといえば、おそらくは『マリア様がみてる』という作品のおかげなのだと思いますが、私はリアルタイムでそれを経験しているわけではないので実際のところはわかりません。(その前段階としてセーラームーンがあるようにも思えます。)

消費財化している?

冒頭で紹介した評論では、男性同性愛には無い女性同性愛に対する抑圧として、3つ挙げています。
いわく、【主体性の抑圧】【性の剥奪】【消費財化】。

エス関係は、姉妹というその関係とルールによって【性の剥奪】がされていると指摘されています。(詳しくは評論を読んでみてください。)


上で書いたように、アニメにおける「お姉さま」という呼称はエスとは離れています。つまり【性の剥奪】という抑圧は無いのではないかと思うのです。*1

しかし、その代わりに別の抑圧がそこにはあるように思います。

それは【消費財化】の抑圧です。
消費財化の抑圧というのは、女性同性愛を「自然」ではないとみなし、そのスキャンダラス性を消費、好奇の目で見るという抑圧です。


アニメではキャラクター性のために「お姉さま」という言葉を使って”百合っぽさ”が演出されているのではないかと書きました。
キャラクター性は他者とは異なっているからこそキャラクター性となるのであり、ということは”百合っぽさ”にキャラクター性を見出すというのは、言ってしまえばそれを「自然」ではないことだと認識していることになるのではないでしょうか?
つまり女性同性愛という関係を異常だと認識しているのでは?


アニメ作品に見られるこういった表現は女性同性愛を消費財化しているのでしょうか?
百合属性を持つキャラクターを好奇の目で見てはいないでしょうか?


私達は・・・と主語を大きくするのはやめておきます。

私は、女性同性愛を消費財化するという抑圧に加担しているのでしょうか?
わからない…。


話が多少ブレたようにも思いますが、アニメにおける「お姉さま」という呼称について書いてきました。
最後に評論から引用して終わります。

女性同性愛は性的消費の対象として「エス」の塀を超えて顕在化するが、それは女性同士の性愛の自由を意味したわけではなかった。むしろ好奇の視線にさらされるという意味で別の抑圧の対象となる。そして、現在恐らく女性同士の性愛の表象はこのかたちで一番多く市場に出回っているだろう。そして、その消費者の大多数は男性だろう。

(「女性同性愛の文学史、あるいは「レズビアン」という不幸――LGBT批判序説2」/ 伊藤氏貴 / 文學界六月号222ページより)

文學界2016年6月号

文學界2016年6月号


<関連記事>
dondontyakutyaku.hatenablog.com

*1:表現上の問題はまた別の話。